俺はアランと同じ考え方をしていたと自慢したい(恋愛について)
最近意識が高いので、岩波文庫から出ている世界各地の古典を読んでいる。ブックオフ行くと結構安く買える。アランの「幸福論」って、「読みやすい岩波文庫」とか「ためになる」など、浅い人たちが飛びつきそうな紹介のされ方をしていることが多くて、そういうのって結構萎えるんですよね。「教養人」が嫌いなので。
それでも、恋愛とか将来への不安とか、いろいろある中で、割と藁にもすがるような思いで「幸福論」を手にした。
そこで、思ったこと。
俺が悩んで出した答えとアランのことばは一緒だった。そうしたらこう思うよ。
あれ、もしかして俺って天才だったのか?
個人的な悩み
俺は恋愛について悩んでいた。こんなのは人生で初めてだった。こんなに女の子を好きになったことがない。自分の思いが大きすぎて、彼女が自分の元から離れていってしまうのではないかと不安になる。不安になりすぎて、友達に悩み相談という名の愚痴をかなりの量もらしていた。友達にとってはめちゃくちゃ迷惑な話だっただろうね。他人の恋心なんてそんな興味ねえぞと。結果だけ報告しろよと。
彼女、すごいんだよね。美人だし、大学でも成績優秀だし、いろんなことにアクティブで、なんというか、俺もこんな人になりたいなっていう気持ちで、それが俺の劣等感に繋がってたような気がする。彼女に対する劣等感がすごくて、いつ彼女はどこかに行ってしまうのかとやきもきしていた。「彼女は俺のことを本当に好きなのか?」、「彼女は元カレとかと俺を比べたりしているのか?」などなど、勝手に自分でconcernを生み出しては1人で悩んでいた。
その苦悩から逃れるために考え出したのは、「考えないこと」だった。「恋愛の悩みは、恋愛を見てても解決しない」というのは、俺が生んだ名言である。他のことをしていれば、つかみどころのない彼女のことに考えを巡らせて悩むこともない。だから、俺は勉強に力を入れたり、友達と遊ぶ機会を増やしたり、様々な活動に積極的に関わっていこうとした。
すると、結果論かもしれないけど、本当に事態が好転した。いろいろ行動することで、不安にかられることもないし、自分が磨かれていくのを実感できる。こういうこと、意識高い人が言ってそうだから言いたくないんだけどな。まあ実際そうだから仕方ない。
真理は、「人の考えなんてわかるわけがない」ってこと。冷静になってみれば、当然のことだ。わからないことをいくら考えてもしょうがない。
アランの考え
これが、アランが「幸福論」のなかで示した想像力の働きについての至言と同じ考え方だった。
想像力という奴は、中国の死刑執行人よりももっと性が悪い。奴は恐怖の量を塩梅するのだから。われわれがグルメのように恐怖を味わうようにさせるのだ。(9 「想像上の苦痛」 より)
ここでアランが言いたいのは、想像力が、人間の恐怖や不安の源だということ。人間は、想像によって恐怖や不安を無限に味わうことができる。俺が彼女に振られることを恐れていたように。無限に振られる想像をして、無限に苦しんでいた。
そしてアランはこうも述べている。
気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。(12 「ほほ笑みたまえ」 より)
想像力は、人間は自分で制御できないらしい。たしかにそうだと思う。考えないようにしようと思うほど考えてしまうっていうのは誰でも経験したことがあると思う。
アランが言うには、行動こそが全てである。行動だけが、人間が唯一自由に操れるものだから。行動をすることで人の気持ちも変わってくる。行動をすることで他のことを考える暇を脳に与えない。
古典を読む意味
個人で、自分のするべきことを追求していくという、俺が出した答えは、アランの、行動こそが全てだという考え方と通ずるものがあると思う。恋愛は、独立した者同士が行わなければ失敗するとよく言われていて、それは、つい最近読み終わった、フロムの「愛するということ」でも同じようなことが書かれていた。
こういうところに、古典を読む意味があるんじゃないかな、と思う。賢人たちが考えてきたことは、つながってるし、現代の人間を形作っているものだから。
実際、幸福論を読んでいる間、にやけが止まらなかった。「いやー、俺、賢人だわ」って悦に浸ってた。周りの人に自慢したくてしょうがなかったけど、「俺、アランと考え方が似てたんだよ!」とか言っても、気持ち悪いだけだからね、自粛したよ、うん。誰かと共有したくて、この弱小ブログに書いてみている。
しばらく更新してなかったけど、やっと暇ができたので、また更新していけたらいいなと思う。